公開日 2017年01月10日
1月8日(日)、松江スティックビル?松江市市民活動センター(松江市白潟本町43番地)にて、第93回島根大学ミュージアム市民講座「古代の道とゆきかう人々」を開催しました。
この講座は、平成28年度島根大学ミュージアム市民講座第2ステージ「"古代出雲"の交通ネットワークを探る」(まつえ市民大学連携講座)の第3回になります。
今回は、大日方克己?島根大学法文学部教授が講師を務め、古代律令国家における道について解説していただきました。
まず、畿内から全国に延びた七道のひとつである古代「山陰道」と、『出雲国風土記』に記述された出雲国内の道についての解説がありました。
次に、こうした道を具体的にどのような人々が往来したのかについて、文献資料の記述から紹介がありました。
正倉院に残されていた天平6年度「出雲国計会帳」には、天平 5 (733)年 8 月 1 日~天平6 (734)年 7 月 30 日の公文書リストが記述されており、山陰道を通行した人々を具体的に知ることができます。(※733年は『出雲国風土記』が撰上された年)
例えば、天平 6 年 2 月 8 日には、政府の公文書である太政官符が、東隣の伯耆国から出雲国府に、山陰道を通じて送られてきています。また、天平 5 年 8 月 2 日、史生(ししょう)?子々法次が調の輸送隊を率いて都に出発するなど、何人かの国司が都に出張している記述などもみられます。天平 5 年 12 月 16 日には、のちに国造となる意宇郡?兵衛?出雲臣国上が、天皇の守衛のために上京しています。また、西隣の石見国にあった山陰節度使と出雲国とを往来する記述も残されています。
以上のように、山陰道をどのような人々が、どのような目的で往来したのか、具体的な記録が残され、それを知ることができることに、大変驚かされました。
このほか、出雲と都を結ぶ道は、山陰道だけではなく、瀬戸内海側の播磨へ抜けるルートもあることが文献資料からうかがえるようです。
参加された方々は、こうした記録から分かる古代の道の姿について、思いをめぐらせながら、熱心に聴講されていました。
次回のミュージアム講座は、『出雲国風土記』のなかの謎のひとつ大原郡家にかかわる話、「大原郡家の移転について-雲南市?郡垣遺跡の調査成果を中心に-」(2.12(日) 13:00~14:30)です。多くのご参加をお待ちしています。