公開日 2014年06月03日
5月31日(土)、第68回島根大学ミュージアム講座「夏?殷の青銅器文化と社会」を開催しました。この講座は、わが国の重要な隣国である中国の歴史?文化を理解する「大发体育の隣国?中国の歴史?文化を学ぶ」シリーズの第1弾です。
今回は、島根大学ミュージアムの会下和宏副館長による、伝説の王朝?夏王朝や実在が確認されている殷王朝の時代の青銅器文化や社会についてのお話でした。
1980年代頃まで、史記に記載された夏王朝は、実在が不確かでしたが、現在では、紀元前2000年から1500年くらいまで続いた河南省の二里頭遺跡がその中心地だったと考えられています。二里頭遺跡からは、宮殿址や青銅器が副葬された墓が発掘されています。
副葬された青銅器の多くは、爵という三本足の酒を注ぐための器でした。これらは、宮廷での儀礼に用いられたと考えられています。また、墓の大きさや副葬品の内容などから、この時代にはすでに身分差があったようです。さらに人骨がバラバラになった墓も見つかっており、奴隷が葬られたものといわれています。
夏に続く殷王朝(紀元前1500年頃~1000年頃)は、前半期が河南省の二里岡遺跡、後半期が殷墟遺跡などに存在していたと考えられています。
この時代の墓は、より大型化し、副葬される青銅器群は種類が増加し、紋様が精緻化します。また、殉葬の事例もよく見られるようになります。殷墟遺跡で見つかった西北岡大墓からは、200体以上の殉葬とみられる人骨が見つかっています。それだけ王権の力が強まったわけです。
この地で生まれたこうした青銅器文化や都市は、この後、東アジア周辺の諸地域に、大きな影響を及ぼしていくことになります。
次回(6/8)は、唐代のお話、「楊貴妃と安禄山-長安から北京へ-」です。ご期待下さい。
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