島根大学お宝研究vol.14
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?プロジェクトリーダー …竹田 健二 Kenji Takeda(学術研究院教育学系?教育学部担当?教授)A Study on the Acquired Manuscripts Related to NISHIMURA TENSHUKAITOKUDO was founded as an academy by merchants of Osaka in the middle of the Edo period, but it had closed in the second year of the Meiji era (1869). About 40 years later, due to uprising of movement to retrieve KAITOKUDO by NISHIMURA TENSHU, KAITOKUDO KINENKAI was organized. NISHIMURA is a pioneer in the study of KAITOKUDO, "KAITOKUDOKO" written by him still serves as the basis for KAITOKUDO study. Two years back, many new documents of NISHIMURA were discovered at the Nishimura house in his birthplace of Nishinoomote City of Tanegashima island, Kagoshima Prefecture. The purpose of this study is to find out by using this new documents how NISHIMURA’s study of KAITOKUDO started.虫損が激しく,文字の判読できない部分がなお少なくありませんが,今回の修復によって,本資料には内題が記されていることが判明しました。重要な点は,内題はもともと「懐徳堂研究之一」と墨筆で記されていたこと,そして後に「懐徳堂考之一」へと修正が加えられていることが確認された点です。西村は明治43年(1910)2月7日から大阪朝日新聞において連載「懐徳堂研究其一」を開始しましたが,同月27日に連載第20回をもって終了するにあたり,その題名を「懐徳堂考」上巻と改題しています。このため,内題が「懐徳堂研究」から「懐徳堂考」へと修正されていることは,この資料が西村による最も早い段階の懐徳堂研究の原稿であることを示す決定的な証拠と考えられます。 今後は,修復後の資料の釈読を進め,『懐徳堂考』成立の経緯,及び西村の懐徳堂研究の全容について解明する予定です。10修復した資料の第1葉表西村天囚による最初期の懐徳堂研究の草稿についての研究A Study on a draft-manuscript of the earliest study on KAITOKUDO by NISHIMURA TENSHU研究者紹介概 要懐徳堂は,江戸時代の中期に,大坂の商人らによって設立された学校ですが,明治2年(1969)に閉鎖されました。その約40年後,西村天囚らを中心に懐徳堂顕彰運動が興り,懐徳堂記念会が設立されます。天囚は,懐徳堂研究に取り組んだ先駆者であり,その著『懐徳堂考』は現在においても,懐徳堂研究に取り組む上での基礎的資料です。先年,天囚の故郷である鹿児島県種子島西之表市の西村家において,天囚関係の新たな資料が発見されました。本研究は,この新資料を用いて,天囚による懐徳堂研究がどのようにして始められたのか,という問題の解明を目指すものです。特色?研究成果?今後の展望2019年8月,西村家?西之表市の協力を得て,昨年度に引き続き西村家所蔵資料の調査及び目録作成のための作業を行いました。加えて,西村家資料の中でも特に重要と思われる,西村天囚の最も早い段階の懐徳堂研究の原稿と見られる資料について,専門業者による修復を行いました。写真は,その資料の第1葉表の部分です。社会的実装への展望西村天囚が東京大学文学部古典講習科で学んだ時の同級生に,松江出身の瀧川亀太郎がいます。また,瀧川の師である内村鱸香は,西村の師である重野安繹と交流がありました。本研究により,懐徳堂研究の経緯に関する解明が進むだけでなく,松江を含む近代大发体育における漢学の実態の解明が進むことが期待できます。西村天囚関係新資料の研究
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